The moon and a shuttlecock


(5)


 アレルヤが、崖を、降りてくる。
 サクサクと砂の上を歩く音がしてから、ロックオンは振り向いた。
「寝たか?」
「ええ、やっと。あんなに不機嫌なハレルヤ、ひさびさですよ」
「無理もないか。突然いいときに邪魔が入ったんだから」
「おかげで、背中が余計な引っ掻き傷だらけです」
「ははは、お前も大変だな」
 アレルヤは、自然な仕草で、ロックオンの左隣りに腰を下ろす。
 マイスター候補生時代も、マイスターになってからも、左右は選ばなかったが、こうして幾度か、隣りに座ることがあった。
 いつも不思議に思っていた、ロックオンからただよう良い香りが、今でも海風にのって鼻をくすぐった。
「これ、コーヒー」
「お、サンキュ」
 手渡されたマグカップには、パンが1枚乗せてある。
「夜食?」
「いえ、砂が入らないようにと思って。夕食、もしかしてまだ…?」
「まぁ、食ったような食わなかったような…最近は毎日そんなもんだ」
「すこし…痩せましたよね」
「そりゃな、お前が知ってるCBにいたころのおれは、毎日トレーニングして、栄養採ってたから」
 蓋のかわりのパンを、ロックオンが口に運ぶ。
 アレルヤはサンダルを脱いで、足の裏についた砂を落とすと、もくもくとパンを食べるロックオンに微笑んだ。
「バターを塗ってくればよかったね」
「ははは、いいよ」
 昨日、買い出しに行ってきたから、ロックオンのぶんの食料も、しばらくはある。
 ロックオンはパンを食べてしまうと、それからコーヒーをゆっくりとすすった。
「──ロックオン…」
「ん? なんだ?」
「生きて…いたんだね」
「ああ、───」
 アレルヤが俯いたまま、なんともいえない表情をしていた。
 はにかむようにも見えるその顔に、ロックオンは言葉が胸につかえて続かなくなる。
 こんなやわらかい雰囲気のアレルヤは、数年間一緒にいたというのに、一度も見たことがなかったのだ。
「あなたが生きていて、よかったよ。あのときは、本当に勝手なひとだって、腹がたったけど…」
 口をぽかんと開けて自分を見ているロックオンに、アレルヤがすこしだけ、首を傾ける。
「どうしたの?」
「え? いや、なんでもない」
 コーヒーの残りを飲んでしまうと、ロックオンはマグカップを両手で包み込み、顔をあげた。
 穏やかに寄せては引く、濃紺の波。
 月がアイボリー色に細く長く映り、波の上で揺らいでいる。
「すまなかったな」
「なにが?」
「いや、いろいろとさ…。おれは結局、自分を優先しちまったから」
「あのあと、結局みんなそうなったよ。みんな、自分の想いに正直になる決心がついたんだ。ぼくも、生きるって決めた」
「そうか…。お前さんは、どちらかというとマイナス思考気味だったからなぁ」
 ロックオンが笑う。
 穏やかに目が細められて、アレルヤは一瞬、目を瞠り、それから微笑みかえした。
「やっぱさ、ここの海はいいよな」
「うん、ぼくたちも気に入ってるよ。ときどき泳ぐんだ」
「釣りはしたか?」
「いえ、それはまだ」
「結構デカイのが釣れるぞ」
「じゃあ、今度一緒にやりましょう」
「いいのか?」
「なにがです?」
「ここに住んでいいって解釈するぞ」
「かまいませんよ」
「ハレルヤが納得しないだろ」
「納得するよ、ロックオンなら」
「どうしてだ?」
「さぁね」
 軽くかわされて、ロックオンはすこし口をとがらせた。
 変わらない、豊かな表情。
 ターコイズブルーの深い瞳。
 白い肌は、月明かりでも、青い血管が薄く透けて見えるようだ。
 物語に出てくるような、美しい人種だ、と、アレルヤは思う。
 知っているのは血液型と年齢くらいで、どこの国の出身なのかも、知らないけれど。
 ロックオンの国に行けば、ロックオンみたいなひとが、沢山いるのだろうか?
「それにしても、こんなことがあるんだね」
 アレルヤは、微笑みながら海に視線を移し、まっすぐに足を投げ出した。
「まさか、夜中にロックオンが帰ってくるなんて」
「ああ」
 アレルヤの言葉の選びかたに、ロックオンが表情をゆるめる。
「誰に家を乗っ取られたのかと思ったら、まさかお前らだったとはな」
「ぼくたちがここを見つけたのも、偶然だったんだよ」
「こんな場所だからなぁ。ハレルヤだって、気に入って当然だ」
「ここに来てから、よく食べて、よく眠るよ、ハレルヤは」
 アレルヤの、裾をすこし捲ったスウェットから、カプチーノ色の長い足首がのぞいている。
 綺麗なかたちに突出している、そのくるぶしをしばらく眺めて、ロックオンは遠慮がちに口を開いた。
「──額に…傷あとが、あったな」
 瞬時に、アレルヤから笑みが消えた。そのまま、ちいさな溜息が漏れる。
「…さすが、ロックオン。よく見てますね……」
「悪い、気になってな」
「いいよ、あなたなら」
 以前のハレルヤとはどこか異なることに、ロックオンはすぐに気付いたのだろう。仲間全員に目を配っていたのだ。
 ただ表面を切った程度の傷あとではないと、感づいたに違いなかった。
「接近戦で、脳に…損傷を負ったんです」
 ロックオンの瞳が、わずかに揺れた。
「2週間も、ハレルヤは目を覚まさなかった。あんな恐ろしい思いをしたのは、後にも先にもあれが初めてでしたよ──」
 必死で手をのばし、掴んで、こちら側に戻そうとしたハレルヤの魂。
 からだが震えるほどの、孤独と後悔──。
 唇を噛んで、膝を抱えたアレルヤの頭に、皮手袋をした手がポンと乗せられた。
「あのハレルヤが、しばらく自分でからだを動かすこともできなかったんです」
「アレルヤ」
「思い知りましたよ…自分がどれだけハレルヤがいなきゃ生きていけないのか…」
 込み上げてきた想いに、アレルヤが両手で顔を覆う。
 あんな風に、からだをつなげているのだ。相当の感情が、ふたりのあいだにはあるのだろう。
 とても、繊細で絶対的な感情が。そして、ときにはお互いに困りながらも、根本にある信頼は揺るぎようもない。
「アレルヤ、もういい、悪かった」
 ロックオンの左手が、アレルヤの髪をやさしく撫でる。
「もういいよ、アレルヤ」
「今でもまだ、ハレルヤは完全に元通りになったわけじゃない」
「ああ、なんとなくわかった。お前さんのほうが面倒見てて、正直意外だったからな」
 アレルヤが、半ば自嘲気味に、すこし笑った。
「ぼくは、そんなに頼りなかった?」
「そんなことを言ってるんじゃない」
「いえ、確かにそのとおりですよ。…いつも、ぼくの迷いがハレルヤを傷つけてきたんだから」
「迷わないヤツなんか、いないだろ」
 いつのことだったか。ティエリアを諭したときと同じ、迷いのない、強い声。
 アレルヤは、もう一度ふふっと笑うと、ロックオンを見た。
「やっぱり、あなたはロックオンだ。ロックオン・ストラトス」
「よしてくれ。それに、その名前はしばらく使ってない。皮肉みたいなコードネームになっちまった」
「でも、それ以外に、ぼくはあなたの名前を知らないよ」
 ロックオンはふと思い当たり、アレルヤを見る。
 あのとき、彼だけが宇宙にいて、事情を知らない。軽くかわして、教えもしなかった。
 今思うと、意地悪だったように感じる。
 家族、などと言いながら。
「…悪かったな」
「なにがです?」
「刹那やティエリアに知られたのは不可抗力みたいなもんだったんだが…。お前にも話すべきだった」
「無理には訊かないよ。興味がないわけじゃないけどね…」
 さらりと言われた興味という言葉が、ロックオンの心にひっかかる。
 そうだ。皆、興味はあった。相手を知りたいなら、当然だ。
 仲間を理解することがあんなに大切だとは、過去を知らなければ本当に理解することができないとは、極限状態になるまで気付けなかったことだった。
 なによりも、あのときの自分たちに足りなかったもの。
 自分自身の想いだけでなく、仲間のために必死になる気持ち。
 圧倒的な数と戦力だけに、負けたのではない。
「なぁ、アレルヤ」
「うん?」
「組織の守秘義務を今も守るかどうかってハナシは、今夜はナシだ」
「ロックオン?」
「今からおれのことを話す」
「待って。ロックオンが自分のことを話してくれても、ぼくは、それに見合うだけ、ぼくたちのことを話せない」
「かまわないさ。おれが話したいんだから」
 アレルヤはすこしの間、瞳を揺らしていたが、頷くかわりに、ゆっくりと、海へと視線を移した。
 ロックオンが話してくれたのは、本当の名前、出身国、テロを憎む理由、そして、これからも志を変えるつもりはない、という強い想い。
 世界から戦争や紛争、テロ行為がなくなるまで、これまでとかたちは異なっても、自分は動く、という決意。
 心からの言葉に、アレルヤは膝の上で組んでいた両手の上にあごを乗せ、目を伏せた。
「……ロックオン」
「ん?」
「誤解しないでほしいんだけど…」
「…ああ」
「なんか…ちょっと羨ましいよ…」
「なにがだ?」
 アレルヤの言葉に、ロックオンは訝しげに頭を傾けた。
「あなたは、アイルランドに生まれたことを、誇りに思っているんだね」
「ああ、それか。誰にだってそういう気持ちはあるもんだろ」
「ぼくたちには、自分の故郷がないから。自分がどこの国の人間なのかとか、もうどうでも良いことなんだ。孤児だったし、わけがわからないまま人革連に連れていかれたから……」
「アレルヤ」
 途中までとはいえ、血のつながる親に愛情をもって育てられた人材は、そういえばCBにはとても少なかった。
 なくすものなど、もうない、と、思っている人間ばかり。
 こんな世界情勢なのだし、武力をもって争いを根絶しようなどという組織に命をかけて賛同するくらいだから、それも当たり前かもしれないが、それでもやはり、個としてその理由を知ると、違う想いが込み上げてくる。
 心の底から笑った経験のない、笑うことのできない仲間のなかで、途中まで、自分もそのひとりだった。
 何事に対しても真正面から立ち向かい、あるがままを見据え、納得がいくまで決して諦めようとしない、ちいさな少年の面倒をみる羽目になるまでは。
「お前さんも、いろいろとあったわけだ」
 ロックオンは再びアレルヤの頭に左手をポンと置くと、ぐりぐりと撫で回した。
「じゃあさ。月並みだが、地球が故郷っていうんで、どうだ?」
「ふふっ。ずいぶん、大きな故郷だね」
「デカいほうがイイことだってあるだろ?」
「そうだね。故郷は地球か…。考えたこともなかったな」
「それに、こう考えりゃ、お前さんとおれの故郷は、おんなじってことになる。州が違うくらいの差になるわけだ」
「そうだね。宇宙から見れば、地球だって小さな星だ」
 姿勢を変えないまま、アレルヤは静かに笑った。
 変わらない、ロックオン。
 いや、変わったのだろう、どこかは。でも、そう感じさせない優しさと身勝手さは、以前のままだ。
 アレルヤは目を閉じて、頭に乗せられた大きな手の重さを、しばらくの間、味わった。
 自分は、変わってしまった。おそらく。
 変わるべきところはそのままに、変わってはならない部分が、歪んでしまったように、感じることがある。
「ねぇロックオン。最初からないのと、途中で奪われるのとでは、どっちがツライんだろうね」
 突然の問いかけに、アレルヤの前髪で隠れた横顔を見つめ、ロックオンは低い声で答えた。
「さあ…どっちだろうな。おれは最初からなかったら、生きてないかもしれないしな」
「ぼくはね、ロックオン……ハレルヤが消えたとき、いっそ最初からいなかったら、こんな想いをしないで済んだのかもしれないって、一瞬考えたことがあるんだ」
「…そうか」
「ぼくは、ひどい。自分が楽になりたいがために、ハレルヤを、いなかったことにしようとしたんだ」
「そんなの、誰にだってある。おれだって、最初からひとりだったら、こんな思いをしないで済んだんじゃないかって、正直、思ったことがある」
 低く響いてくる、ロックオンの声。
「でもな、おれは家族がいて幸せだったと思うし、お前さんだって、そうだろ。なくして憎んだり悲しんだりする気持ちと、たとえ過去のことでも、自分が持っていて幸せだったという事実は、同じ天秤にゃ乗せられないんだ」
「でも…ぼくは…──ぼくは、人でなしだよ…。ハレルヤに頼ってばかりだったくせに、なくすことを恐れるあまりに、」
「お前はお前なんだ、アレルヤ」
「…ぼくは、ぼく…? どういうこと…?」
「心までは、改造されちまってないだろ?」
「──そうかな…。そうだと、いいんだけど…」
「人間なんて、みんなそれぞれが自分の都合のいいほうへと、事を曲げて考える生き物さ。おれも、お前も。聖人君子だろうが、大悪党だろうが、それは同じだ。その度合いと、欲がどっちの方向を向いてるかってだけだ」
「……」
「お前は大丈夫だ。おれが保障する」
「あなたに言われると、説得力あるかも」
「なんだよそれ。信用ねぇなぁ」
「そうじゃないよ、信じてるよ、ロックオン…」
 話してくれた、あなたを。
 道は違っても、同じ目的に向かっている、あなたを。
「ロックオン、ハレルヤはあんなふうだけど」
「ん?」
「一緒に住みましょう。だいぶ手狭にはなってしまうけど…。もともとはあなたが住んでいた家なんだし」
「そうか。…嬉しいよ」
「勝手に住んでしまって、すみませんでした。もう誰も使ってない家だと思っていたので」
「ま、別にいいさ。掃除する手間がはぶけたと思えば。知らないヤツだったらどう追い出すかって考えてたけどなぁ。ひどく巧妙なセキュリティがかけてあったからな。おれも用心した」
「そりゃあ、こんな場所でも四方にセキュリティくらいはかけるよ」
「ドアや窓の鍵も、換えちまっただろ」
「あとでスペアキーを渡すよ。ハレルヤがひとりで家を出入りすることは、滅多にないんだ」
「サンキュー」
「あと…その……。ぼくたちは毎晩セックスをするので…夜は今日みたいに……」
「ああ。おれも考えることがあるし、毎晩しばらくここに避難する。終わったら呼びにきてもらいたいけどな」
「ええ、あなたが夜風で凍えてしまわないうちにね。明日、あなたの寝る場所を作りましょう」
「頼むから、嵐の夜は追い出さないでくれよ」
「本当は、ぼくたちが出ていくべきなのに…。すみません」
「かまわねぇよ。ハレルヤのためだろ? いつまでだって使えよ。この海も空も、逃げねぇよ」
「──あなたは?」
「? おれ?」
 アレルヤの銀色の瞳が、静かにじっとターコイズブルーの瞳を見つめた。
「…ああ。逃げねぇよ。もう、ひとり先に突っ走るようなマネはしない」
「信じるよ。ぼくは、あなたを信じる」



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