ヴェネツィア (RE:004002/*R18)
水の上を歩けるというのは、どういうことだろう。
気がついたら、ここにいた。撃墜されたときに燃え落ちたはずの服を着て、だがポケットに携帯電話は見つからず、IDカードには自分の名前の印字だけが残り、写真も、機関の名称も、所属もナンバーも消えていた。
空に背を向けるかのように、ぽつんとひとつだけ置いてある椅子に、ジェットは腰を下ろした。
まぁいい。水と一線を隔していられることは、全身がデリケートな精密機械の自分にとっては、とても都合が良い。今の自分は水泳を好まない。このボディで塩を含む水になんか浸かったら、後でメンテナンスが厄介だ。
「ここは何処なんだ? オレは宇宙で粉々になったんじゃなかったのか?」
煙草が、ひどく旨く感じる。
頬が、水分を含んだ風を温かいと感じる。
水面には雲の一筋までが映りこみ、まるで足元にも空があるかのようだ。
反射する太陽(本当に太陽だろうか?)の光が、時折射すように眩しい。
眩しさから思わず顔の前に手を翳し、ジェットは次の瞬間、息を飲んだ。
「あー……。えーと、いつ以来だっけな?」
久々に再会した博士と仲間たちに一通りの挨拶を済ませると、ジェットは最後にハインリヒの前に立った。
「アンタ、暫く見ない間に随分渋くなったな」
「そうか? ま、俺はお前みたいにドイツで最前線にいたわけじゃないからな。そのせいかもしれん。お前は見たところ、遊んでたわけじゃあなさそうだ」
「ったり前だろ」
「怒るな怒るな」
NSAはさぞ、神経の擦り減る機関だったのだろう。時に刺々しいジェットの気質が殆ど以前のまま変わっていないことに、ハインリヒは微笑んだ。
「まだ全員揃ったわけじゃない。009は003とさっさとふたりきりだ。俺たちも、とりあえず落ち着こう」
ハインリヒの提案に、ジェットは肯定的な相槌を打った。
ハインリヒは、道を知っていて歩いているのか、それとも適当に歩いているのか。周囲を見回しながらジェットは彼の後をついていき、人の気配のない、一軒の家に招き入れられた。
「ここ、アンタんち?」
「そう思って寛いでくれてかまわん」
古い、だが落ち着いた色あいの室内。石造りの天井は高く、大きな窓からは水辺が見える。四方に緑が育ち、どこかひんやりとしていた外とは違い、暖かな空気に満ち溢れていた。
部屋の中央にある、大きなベッドに腰を下ろしたハインリヒが、ジェットに両手を差し伸べた。
「いい加減、子供じゃねぇっつの」
それでも、ジェットはベッドへと近づいていき、ハインリヒの脚の間に立つ。両腕を身体に回されると、ジェットの両手がハインリヒの肩へ自然に乗った。
「さっきからなんだか妙な感じはしてたんだが」
「うん……」
「まさかこれ、お前、……生身か?」
「うん、なぜだか」
右手の甲に、ちいさな引っ掻き傷。千度を超える熱風にも、マイナス百度の猛風にも耐えた屈強な肌は、今では上着のファスナーが擦れた程度で簡単に傷がついた。
心臓から直接送られる温かい血液が全身を巡り、手首に触れれば、とくん、とくん、と脈がふれる。
昨日まで、いや、いつから意識が飛んでいたのかはわからないが、少なくとも最後のメジャーチェンジをしてからはもう、自分に血が流れていることすら忘れていた。普段全身を流れる人工血液は、飛行形態になれば勝手に躯の芯へと一気に引き戻され、脳と一部の内臓間のみで、集中的に循環するようにできていた。特に、高速で状況の把握と対応を求められ、大量の酸素と熱量を必要とする脳には、栄養タンクと直結した人工心臓から、秒間何回も、迸るように血液が送り込まれた。
高高度の過酷な環境を飛ぶボディに、ヒトの体温は要らなかった。飛んでいる間は外気で肺がダメージを受けやすくなるから、呼吸さえしない。空気の流れを捉えるために開いた胸のパーツが、通り抜けていく気流から酸素を取り込み、両脇に存在する人工の小さな器官が、脳から降りてきたばかりの消耗した人工血液に高圧で酸素を吹きつけ溶け込ませ、同時に適温に冷やす。そうして送られた、酸素がたっぷり含まれた血液に、栄養タンクが熱量をふんだんに加えて、新しい血液として心臓へとまた送る。
飛行形態のときのジェットの胸部は絶えずその繰り返しで、飛行に関係ないその他の器官はすべて自動制御で凍結された。腹から腰、さらに太股には、ジェットエンジンのための高圧縮固形燃料が詰まっていた。
本物の身体は、一刀目の改造手術から、能力実験による損傷、さらなる改造の度、知らないうちにどこかに捨てられてきた。臓器売買に出されていた可能性もあるが、取り戻したくても追いようもなかった。が、一方的に本物の自分を削られていく理不尽だったはずの行為は、戦闘で負傷を重ねるうちにその都度感傷に浸ることをやめさせ、いつの間にか、自分の判断で自らの身を切り捨てられるまでになってしまっていた。
誇りを持っていた髪の色は、祖国ですこしの偏見も持たれることがないようにと、完璧な金色に変えた。巨大な多民族国家とはいえ、従ずることになるだろう機関では、些細なことが差別や揶揄の原因になるだろう。ただでさえ、なにかと疎まれるゼロゼロナンバーだ。一つでも障害は減らしたかった。
テスト飛行時、血の気をまったく感じさせない硬質で青白いボディを見たジョーが、少しだけ哀しそうな瞳をしていたのを、憶えている。
ジェットの身体は、さらに高度な飛行が可能になったが、実際は脳だけがそこにあるようなものだったのだ。敵から狙われやすく、またダメージを受けやすい手足がちぎれても、殆ど燃料だけで満たされている腹から下を失くしたとしても、胸部深層部のみで行われる人工血液の循環と脳さえ無事なら、いくらでも再生できる。それでも痛覚を残したのは、メンテナンスのためだ。痛みは極自然に、異常を報せる。
財団が縮小する寸前、これまででも最大規模の手術を受け、テスト飛行を繰り返したジェットは、ついに最後まで博士とは心を違ったまま、単身で渡米した。
「罰かな」
ぽつりと口にした言葉を、ハインリヒは流さなかった。
「何に対してのだ?」
「わかんね……」
「だったら、そんな風に考えるな」
「脱がしながら言っても、説得力ねぇって……溜まってたのかよ、オッサン」
ジェットの声はどこか自暴自棄で、ハインリヒはジェットの両手を諭すように握った。
「ジェット、その呼び方やめろ」
「……。004」
「あの頃のように、名前で呼べないのか、ジェット?」
ジェットの右手の甲に、ハインリヒが口唇をあてる。傷は小さいが、触れられるとチクリと違和感が走り、反射的にジェットは手を引いた。
「消毒、しておいた」
シャツのボタンはすべて外されて、鎖骨から臍下までが晒されている。靴も靴下も、いつの間にか床に転がっていた。
音もなくファスナーを下ろされる。下着の中にするりと忍び込み腰周りを撫でるハインリヒの手は、ジェットの記憶にあるものより大きいように感じた。
「裸足にビジネススーツっていうのも、悪くないな」
ハインリヒの手があまりにも巧妙に肌に触れては離れ、服を剥いでいくのが心地良くて、ジェットは抵抗するのも忘れていた。
息が、勝手に上がっていく。肌が露わになるたびに、全身が勝手にハインリヒに魅かれていく。
「生身だと、幾分華奢だな。スーツのサイズがいまひとつ合ってない」
首筋を舐め上げられ、ジェットの咽喉が小さく鳴った。
「なぁ、ちょっ、おい、オレだけ脱がせて、なんでアンタは脱がねぇの? 手袋くらい外せよ」
「駄目だ」
「ドイツ人」
ケチ、という意味で、ハインリヒが嫌う言い方をわざとして見せると、ハインリヒは昔のように頭をガツンと殴るでもなく、ジェットの頬を指先でそっと撫でた。
「馬鹿、そうじゃない。万が一お前の肌に残るような傷をつけちまったら、取り返しがつかないだろう」
「かまわねぇよ……貞淑なフロイラインでもねーのに」
「こんなにデカい娘、どこ探してもいないよ。お前は相変わらず手のかかる」
ハインリヒの目はどこか笑っていて、ジェットはふいと視線をそらした。
彼の言う通り、金属の節がいくつもある右手で触れられたら、あの節がすこしでも引っ掛かったら、この肌は血を流すだろう。
この後も生身で生きる可能性を考えて、傷をつけないように気遣ってくれているのだろう。
そんなこと、ジェットにとっては、今はまったくかまわないのに。
「アンタは全然脱いでくれなくて、オレだけ真っ裸なんて」
「前も、そうだっただろう?」
「手袋は外してた」
「お前が生身じゃ、とてもじゃないが無理だ」
「……大体、いつまでこのままなのかもわかんねぇのに」
「だからこそだ。大切にしとかなきゃならんだろう」
「じゃあ……、じゃあ、左手だけ。それならいいだろ」
負けた、というように微笑み小さく溜息をつくと、ハインリヒは左手を差し出した。
「うわ、硬ってぇ!」
いつも簡単に外しているように見えていたハインリヒのグローブは、予想以上に金具が頑丈で、ジェットはすぐに眉根を寄せた。
「だからそう、怒るな。爪に気をつけろよ。中はもっと硬いぞ」
指先ではうまく外せず、ジェットは両手でハインリヒの左手を掴むと、金具に今度は歯をかけた。
真っ白な歯の間から、ピンク色の舌がのぞいているのを、ハインリヒはじっと見つめていた。
「──だめだ、外せねぇ。なんだよむかつくな……」
グローブから離れた口唇は、ほんのりと紅く染まっていた。
「生身か」
ハインリヒの舌が、金具の痕がついたジェットの指先を慰めるかのように拭い、両腕が、ジェットを抱き寄せる。
背後で左手のグローブを外し、それから、ジェットの広い背中を、大きな左手がゆっくりと撫でた。
ハインリヒの人工皮膚は金属質で、硬い。それを、強靭な人工筋肉や人工骨が、ヒトの数倍の力で内側から形づくっている。手を握る動作だけで、生身の人間では考えられないような力が必要なのだ。表面の神経は、改造を受けた最初の頃は異常を報せるセンサーがところどころに仕込んであるだけだったが、今では正確な触感がある。異常は痛覚として脳に伝わり、左手なら温度も、優しい風の動きも、なにかに触れて心地良いと感じることもできる。
ジェットの背中はひどく白く、その肌は吸い付くような手触りだった。
「綺麗だな」
「冷てぇ……」
ジェットの背中の表面薄皮一枚分だけが、ハインリヒの手の下で、逃げようとするかのように震えた。
窓から射す光にキラキラと金色に輝く細い髪は、光の角度によっては紅く見える。軋むような人工毛髪ではない。髪に手を入れると、なめらかで、柔らかく指が通った。
「赤毛はやんちゃだと聞いたことがあるが、お前はその筆頭だな」
「言うな」
「オレをきつい目で見る碧眼もいい。空に見下ろされてる気分になる」
「言うなって…!」
「だからいちいちそう怒るな。虐めてるわけじゃないぞ?」
ハインリヒの両手が、白く薄い頬を挟んだ。
「こんなに美人さんだったのか、お前は」
鼻先にふれるだけのキスをされ、ハインリヒの瞳をじっと見つめていたジェットの肌が、一気にピンク色に染まった。
「反応速度もヒトだな」
「な、……な、」
「照れているのか?」
「バカにしやがってっ……!」
「してねぇよ、バカ」
「してるだろ! なんだよ、そんなにからかって面白いかよオレは」
「だからしてねぇって。美人を美人と褒めてなにが悪いんだ? 素直になれ」
ハインリヒの口が、ジェットの口唇を吸った。
ジェットの舌はひどく柔らかく、ハインリヒは吸いちぎってしまわないよう、加減をしなければならなかった。
サイボーグだったときにはなかった、長い糸切り歯がハインリヒの舌を掠めた。
巨大な祖国で、世界の平和のために生きることを選んだジェット。ギルモア博士に見せてもらった彼の最新型ボディの構造は、ハインリヒより遥かに機械的で、手術の前夜、ハインリヒはジェットを説得しに部屋を訪ねたが、ジェットは聞く耳を持っていなかった。
あの、全てが変わってしまった、最初の改造よりも前の───ハインリヒが知る由もなかった人間の身体のジェットは、本当は、本来は、こういう肉体を持つ青年だったのか。
ハインリヒの知らない肌、口唇の感触、舌の肉のひだ。長い睫毛。言いたいことを口より先に素直に伝えてくる、深く澄んだ蒼い瞳。本当に言いたいことは飲み込んでへの字に噤んでしまう、口。
どことなく、甘い空気。
生々しい質感に、くるくると極自然に豊かな表情を作るジェットは、サイボーグでいるときよりも幼く見えた。
「ん、んぅ……気持ち…イ……」
舌を舌で優しく擦られて、ジェットの脚が力なくシーツを蹴る。
ハインリヒに抱きすくめられ、首筋を指先で擽られて、背中から脇腹を手の平で何度も大きく撫でられて。
与えられることをそのままそこで受け止めてしまい、逃がすこともできず、感じないふりもできない。
ジェットはふたり分の唾液を飲み込むと、そのまま嗚咽を始めた。
「──なんで泣く」
「めんどくせぇ、生身って……」
「めんどくさい?」
「ぜんぜん、コントロール、できねぇんだもん」
ハインリヒとこうしていることが、本当はとても嬉しい。人工の神経が伝える擬似信号ではなく、本物の感覚が痺れるように全身を満たしていくのが、嬉しくてたまらなかった。
「なぁ、生身のオレって、変じゃないか? 気持ち悪く、ないか?」
「本心では戻りたかったんじゃないのか?」
「人間だったときより、サイボーグだった時間の方が遥かに長いんだぜ? 戻ったところで、こんなに脆いカラダ、今更どう扱えばいいんだか、さっぱりわかんねぇじゃん」
「そうだな。だがだからって、泣くようなことか?」
「だって今のこのオレは、飛ぶ感覚も、加速した世界がどんなかも、全部知ってるんだ。でも、実際にはできない。これじゃあ、飛べない。……みんなの役に立てない」
次々と濡れていく頬を舌で拭ってやりながら、ハインリヒはジェットに何度もキスをした。
「気持ち悪くなんかないし、むしろ、ドキドキしてるさ」
金色の眉を親指で撫でつけ、眉間の皺をくいくいと指先でのばし。乱れた前髪をかき上げれば、現れた美しい額にもキスをする。
長い鎖骨も、誰にも触らせたことのないような色をした乳首も、程好く浮き出た肋骨も、指を引っ掛けて欲しいとばかりに鋭く突き出た腰骨も、行儀悪く投げ出された長い脚も。ハインリヒの二の腕を縋るように掴んだ長い指が、ちいさく震えていることも。
「今のお前はこれで充分じゃないか」
ジェットの膝の裏にグローブ越しの右手を添えて、肩まで持ち上げたハインリヒが、白く長い脛に口唇を寄せた。
もう、痛くはないか……?
そう訊かれているようで、ジェットは奥歯を噛みしめた。
脚を大きく開き、その間にハインリヒがいることを許していたジェットは、ふいに触れてきた肉の熱に鋭く腰を震わせ、ハインリヒを見上げた。
「わ、わ、」
「なんだ」
ジェットは泣いたりおとなしくなったり、本当に忙しない。
そういうところも可愛くて仕方がないから、ハインリヒは笑いを堪えながら、ジェットを見つめ返した。
「アンタ……すっげぇ勃ってんじゃん!」
「この状況で、驚くことか?」
指先で、張り詰めたところを優しく突付かれて、濡れた蒼い目が見開く。
「お前もすごいよ、ジェット?」
「ぅ、……」
「もう濡れてる」
「……アンタ渋くなったけど、枯れたわけじゃあないんだな」
「そういうことだ。嬉しいか?」
「ぅ~……」
「諦めろ」
シャツの前をすこしだけ開けて、ハインリヒがジェットの手をとると、ジェットは促されるまま素直にシャツの弛んだ布地を握った。
そうしてジェットを傷つかないところに掴まらせておいて、ハインリヒは腰をすすめた。
「……、っ、うぁ……っ!!」
ジェットの背がのけぞった。
腰の奥から脳天まで、からだの芯を電流が走るような強い刺激が貫く。
その大きさと、力強さと、火傷しそうな熱と。
「──っ……痛ッ……ってぇ……!」
生身では初めての、感覚。逃げ場のない不安に、噛み締められた歯がミリミリと音を立てた。
「力、抜け、ジェット」
「んんっ、んぅ……」
「いいから、力を抜け」
「無…理……」
「今は俺とこうしてることだけで、充分だろう?」
濡れた目が、ハインリヒを睨みつけた。
「俺の言う通りに、できるだろう?」
そんな顔で睨みつけても、ハインリヒをさらに喜ばせるだけだ。
彼の性格はわかってはいるが、ジェットの頭の中はハインリヒが与えてくる感覚でいっぱいで、思考が追いつかなかった。
「なんで、こんな、オレが感じちゃうトコばっか、……オレって、そんな、単純、なのか?」
余裕のない、泣き顔にも見えるジェットが、首筋を反らせ、必死でハインリヒにしがみつきながら、身を捩る。
単純なのではなく、ひどく感じやすいだけだ。
「生身ってのは、すごいものだな。正直すぎる」
「言ってる意味、わかんね…ぇよ……っ」
「何度か経験すればわかる」
ハインリヒの太股に太股を乗せ、重く硬いボディにしがみつきながら、ジェットは自分の膝から下が突かれるたびに揺れているのを、潤む視界の中で見、それからハインリヒの顔を見つめた。
声が、抑えられない。ハインリヒの硬く熱いペニスが、身体の奥底を擦り上げ続けている。
「あ、ぁ、あ、あ、あ、ぁ、」
「ジェット、名前、ちゃんと呼べよ」
「ぁ……、あ、ぁ、ア、……ル」
「もっと」
「アル……、アル……ァ、アルベルト……ッ」
「いいコだ」
「苦…し……っ」
鼓動が高まりすぎて痛いのだろう、ジェットの右手がハインリヒの胸を掴んだ。
人工心臓とは比べ物にならないほど、一度に少量の血液しか扱えない生身の心臓。ジェットの呼吸は今にも絶えそうに逼迫していた。
「それもすぐに悦くなるさ」
ジェットに口移しで酸素を分け与えてやりながら、ハインリヒの口唇の端が意地悪く小さく上がる。
「俺の名前呼んでろ。イカせてやる」
「ゃ、……ぃや、だ……」
「なにがイヤなんだ?」
「まだ……終わらせ、るな……」
「終わんねぇよ、何度もって言っただろう? 安心して好きなだけイけ」
「やだ、だって、イキかた、わかんね……」
「このままずっと感じていればいいだけだろ? ほら、」
さらに深いところまで突き上げられ強く何度も擦られて、ジェットの声が裏返った。
「んぅっ、ヒ…ッ、ンッ……」
「可愛いな、ジェット」
同じ建物で暮らしていた頃に、ハインリヒが度々ジェットに教え込んだ感覚。“そこ”がどれだけ快楽を得るのか。心身共に相性の合うふたりが交わると、どれだけ幸福を感じるのか。
生身の躯はジェットにとってもハインリヒにとっても確かに未知だが、ジェットの脳は何かを憶えているのだろう、ハインリヒの無茶な抱き方に、抵抗らしい抵抗を一切しなかった。
「ゃ…っ! 落ちる……っ!」
「大丈夫だ、支えててやる」
「アル…ッ! ぁあ…ッ! ィヤだ…! ヒゥッ!!」
瞬間、ハインリヒに体重をかけられ、ジェットの呼吸が止まった。
まだ小刻みに奥を突き上げられていることも理解できず、両脚は大きく震え、腕はハインリヒの肩越しに突っ張り力なく空を掴み。戸惑いながらもやっと受け入れていた柔らかな肉筒が、ハインリヒのペニスをピリピリと強く締め上げる。
声もなく叫び、のけぞったジェットの首筋に流れた一筋の唾液を、ざらついた硬質の舌が優しく舐めとった。
ベッドサイドにあった煙草をとり、ジッポで火を点けると、ハインリヒは天井を眺めた。
抱きながら、生身のジェットがどんなものなのか、確認し続けた。ジェットが意識を手放してからも、すこしの間ジェットの躯を眺め、撫で回した。
ハインリヒは、普段比較的ニュートラルな自分の心が、まだ浮き足立っているのを感じていた。
ジェットは全身どこを探しても、プラグの挿入口ひとつ、見当たらなかった。当然ながら、足の裏に噴射口が開いていることもなかった。
生身のジェットを抱いて、ひとつわかったことがある。
ジョーのことだ。
歴代の実験体を踏み台にして、たった一週間で完成されたボディ。最も強く、だが、心には深い情と揺らぎを持ち、最もヒトに近い。唯一の、本当の意味での成功体だ。
ジョーの肌と、ジェットの肌は、どこか似ていた。温かく、柔らかく。吸いつくような手触りも、優しく圧迫すると優しく受け入れようとする弾力も。撫でると、拒否ではなく、なにが触れているのかを窺うかのようにさわさわと肌理が粟立って、そのうち心地良いとわかれば、じんわりと熱を持つところも。
「まぁ、俺のこの身体で感じることなんて、そう正確とは言えないのだろうが」
しかも、三十年以上も前のことだ。
「オレにも……」
シーツの中からのびてきた手が、ハインリヒのシャツを掴んだ。
「起きたのか」
「んー……、」
「調子はどうだ? どこか痛いところはないか?」
「……ケツが痛ぇ。あと、すんげぇだりィ。なんか息もしづれぇし、アンタ、生身相手にやりすぎだろ……」
「そうか」
「それだけかよ」
「一晩中、兵器を相手にしてたんだから、多少は痛むところもあるだろう」
またそんな言い方をするのか、と、ジェットはちいさく溜息をつく。近づいてしまえば、こんなに優しい男はいないというのに。
「悪かったな。弾は満タンじゃないんだが」
「それより煙草、オレにも」
「今は吸わない方がいいんじゃないのか」
「すでに受動喫煙だろ。それにそれ、そもそもオレの煙草だろうが」
「硬いこと言うなって」
ジェットに銜えさせた新しい煙草の先にハインリヒが自分の煙草の先をそっと押し付けてやると、まだ眠そうな目でハインリヒの口許を見つめながら、ジェットは頬を窄めた。
「口移しでなんて、アンタも色気のあることやるんだな」
「名前で呼べよ」
「……。アル……」
「よろしい」
「寒みぃ……」
ぶるっと一度震えると、ジェットは隠れるように布団に埋もれた。
この身体で、ハインリヒに抱かれたのか。自分の体温で暖まったベッドを心地良いと感じるような、こんなにデリケートなからだで。
この家に連れて来られ、ハインリヒの懐に飛び込んで、もっと色々なことがあるのかと思っていた。が、ハインリヒは一度つながった身体をついに最後まで抜かず、ジェットはずっと仰向けのまま、四肢を宙に浮かせているかたちになった。どうしたら良いのかわからず顔を隠せば、やんわりと手首を掴まれた。やんわりと掴まれるから、却って抵抗できなくなった。
ハインリヒは何度でも、乱れるジェットの前髪を両手で優しくかき上げては、汗ばんだ柔らかな額にキスをした。休むことなく、ジェットのなかをかきまぜながら。
同じ姿勢で、とことん可愛がられ、何度目かの絶頂には、掠れた声で、夢中でハインリヒを呼んでいた。力が入らない腰を、やめないでくれと押しつけようとしては、突き上げられた。
銜えた煙草を細く吸いながら、ジェットは一夜の記憶を呼び起こした。
ジョーとのことだ。
最後の大きな手術を決めた夜、部屋でひとり酒を飲んでいると、ジョーが訪ねてきた。ジョーはひどく思いつめたような表情で、ジェットに手術を考え直せないか、訊いてきた。突っぱねると、ジョーはその場で裸になった。
まるで、死刑前の囚人に、最後のご馳走を差し出すかのような行為に思えた。
ジョーの身体はそれまでも何度か見たことがありはしたが、寝室でとなると、その見え方は違った。
ジェットは自分でも思いがけず、欲情した。仲間のどのボディよりも優れたジョーの躯。見た目はまだ大人になる途中のティーンのようで、おまけに人間そのもの。関節には一筋の繋ぎ目も、小さな段差さえない。欲に合わせて、激しい嫉妬のような感情も、酒の影響か沸き上がった。
どうせ、手術が終われば自分はここを去る。ジョーとは二度と会わないかもしれない。
ジョーの腕を掴み、ベッドに引き込むと、ジェットはこの腹の立つ日本人が次にどうするつもりなのか、酒を口に含みながら待った。
ジェットの予想よりも、ジョーは経験が豊かだったのだろう。翌月には別物の身体になってしまうジェットに跨ると、服の前を開けて、大胆にジェットのペニスを舐めしゃぶり、精液を何度も啜り、飲み込んだ。それから、自分の腹の奥までジェットを受け入れると、朝まで淫らに腰を使ったのだった。
博士の決断には、結局逆らえない。そんなわかりきったことを責めても、仕方がない。だが、どうしても許せなかった。
何故、ジョーだけが特別なのか。死の淵に幾度となく追いつめられるたび、仲間全員で戦った。いつだって、仲間のために命を惜しむ者はひとりとしていなかった。その結果として、全員がなんとか生き延びてきたのだ。
確かにジョーは、時にはリーダーだったかもしれない。だが、立場の優劣などなく、自分たちは己の利益に捉われない、仲間という関係だったはずだった。
日本人だからか? だがあの国は、憲法を盾に、世界を前にすればアメリカに頼ってばかりだ。
自分たちが並列の関係だと思っていたのは、自分だけだったのだろうか。どうして、誰もなにも言わない。そんなに自分は、ジョーに劣るのか? 大体、ジョーの改造がたった一週間であれだけ優れたものになったのは、初期被献体を踏み台にしているからじゃないか。
どうして、ジョーは本心を語ってくれないのだろう。自分が戦いから離れ“保管”されてしまうことに、怒ってくれないのだろう。アメリカは無理でも、どこかで戦いを続けると、どうして言ってくれないのだろう。
優れたサイボーグのくせに、ジョーは博士の考えに賛同し、温存されることを受け入れた。物に溢れ治安も良い国で、法律からも守られる高校生として。その力を活かすことなく、ぬくぬくと。
本当に、腹が立って仕方がなかった。
だからあの夜、ジョーを悦くさせてやるようなことは、これっぽっちもしてやらなかった。
ジョーは表面上はセックスに夢中になっているように振舞っていたが、通信を開けっ放しにしていたジェットの脳にはずっと、泣き声を噛み殺しながら、「ジェット、わかってくれ」とただただ繰り返すジョーのか細い声が、一晩中聴こえていた。
あのジョーに、あんな行為を教えたのは誰なのだろうか。すっかり忘れていた生身の人間の熱のようなものが、ジョーからは伝わってきた。ジョーは、最後に完全な形ではないが、生来のヒトとしての悦び、もしかしたら愛のようなものを与えに来てくれたのかもしれない。だが、ジェットはそれを想い出にすることもなく、とうの昔に中途半端な状態のまま使い古した自分の身体には、もう未練など持つ気にはなれなかった。
アメリカという国で、たったひとりで自分の居場所を確保するには、それまでのボディでは力が足りなすぎた。祖国に戻るには、強いボディが要る。そのためには、さらに自分を切り棄てなければならない。頑なになってしまったジェットにとって、仲間の意見など、あのときのあの状況でアメリカを、世界を前にしたら、とても素直に聞き入れられるものではなかった。
今、この手でジョーに触れたら、あの夜とどう違うのだろう。なにか違う、情が出てくるのだろうか?
久しぶりにジョーと再会したのは、天空だった。ジョーはかつての仲間が堰を切ったように吐き出した不満を、冷静に、だが優しい心のままで聞いていた。27年ぶりに触れたというのに、ジョーの身体は逃げなかった。ジョーの笑みを見た途端、どうしてもこいつには敵わないのかと自問する自分が現れた。繰り返し問いかけようとしてくる自分を消し去りたくて、自分から掴み掛かっておきながら、ジェットはジョーを突き放して逃げたのだ。
今の自分は、ジョーを前にして、なにを感じるのだろう。ほぐれた心で、素直に語り合えるだろうか。もしかしたら、人間としての立場で、サイボーグ戦士を見る目をするのだろうか?
それでも、自分はヒトとして普通に生きるには、色々と知りすぎてしまった。記憶が鮮明にある以上、心だけは、もう元には戻せない。どうせまた戦いに興じるために改造することになるのなら、ジョーのような優れたサイボーグになりたい。ギルモアに頼んでみようか。
ふと、そんなことまでが、頭を過ぎった。
「ジェット。腹は減ってないか? 何か作ってやろうか?」
ハインリヒが、頭を撫でてくれている。
銜えたままだったジェットの煙草をとり、ベッドサイドの灰皿で灰を捨てて、ほら、とまた口に銜えさせてくれる。
セックスの間中、ハインリヒはわざと何度もジェットの身体に体重をかけた。初めて、ジェットはハインリヒの硬さと重さを思い知った。ハインリヒに乗りかかられ抑え込まれると、苦しさの奥から、深い深い快感が湧き上がった。
あそこまで感じることができるとは、ジェット自身、予想もしていなかったことだ。突っぱねたいほどの苦痛と混乱とは裏腹に、ハインリヒに縋りつき心底感じて、さらにもっと強く求められたい自分がいた。
ハインリヒは、ジェットが曝け出すものをいとも簡単に、微笑み、ときには愛しそうに声を出して笑い、すべて受け止めた。
ハインリヒは変わっていない。──ジョーも。あいつも何一つ変わっていなかった。あんな別れ方をしたというのに、信じてくれていた。
だから、あんな場所にまでジョーを追いかけて行って、結局はジョーにすべてを譲り、託したんじゃないか。世界を守ることより、仲間との絆の方がずっと大切だと、自分はちゃんとわかっていたじゃないか。
ジェットは溜息の入り混じった煙を、長く吐き出した。
「また余計なことを、ぐるぐると独りで考えてるな?」
「……余計なんかじゃねぇよ」
「お前らしいけどな。ちっとは俺を信用しろよ?」
はだけたシャツの隙間から、ハインリヒの胸元が見えていた。ジェットの胸をさんざん押し潰し、ジェットが拳で叩こうが微動だにしなかった、強い、硬質の。
「……作ってくれるって言ったっけ。材料、あんのか?」
「キッチンになにかあるだろう。そういう世界のようだ」
「じゃあ、パスタがいいな。ずいぶん食ってねぇ。ベーコンと、アサリと、それからオリーブオイル、トウガラシ山盛り──」
「わかったわかった。じゃあワインも探すか」
余程、触り心地が良いのだろう。昨夜から手袋を外したままのハインリヒの左手は、ジェットの髪を梳き、くしゃくしゃとかき混ぜていた。
「なぁ、アル。オレって、そんなに美人か?」
「あぁ」
「アンタ、意外と悪趣味な」
ここが何処なのか、どうなっているのか探求することもなく、一番近くにいた男と寝て、そのまま眠り込み、起きぬけには煙草。
しかも、ぼんやり考えていたのは、今隣りにいる相手ではなく、ジョーとのこと。
「オレ、性格悪いだろ」
「それはおたがいさまってやつだ」
「神ってやつが、人間を滅ぼしたいのもわかるな」
ハインリヒが、二本目の煙草に火を点けた。
「それは違う。お前は、甘えるのがちょいと下手なだけだ」
煙草に漸く指を添えようとしていたジェットの動きが止まった。そんなことは、半世紀存在してきて、誰からも、一度も言われたことがなかった。
やっと煙草に届いた指先が、微かに震えた。
「ンなこと言ったって……普通は、友達とか仲間ってヤツと、セックスなんて…しねぇだろ」
「それは俺にもなんとも言えん。そもそも俺たち自身が稀有で、まず普通とは言えないからな。だが、子供のままサイボーグなんぞにされて戦争に駆り出されちまったヤツには、たまには甘えさせてやることも必要だ」
反射的に、ジェットの視線がハインリヒへ上がった。
「っ、それ、ジョーにも言っ……」
「ん?」
銀色の鈍い光を放つ瞳が、蒼い瞳を優しく見つめ返す。ハインリヒ自身はもう感じなくなっているのかもしれないが、ジェットにはひどく哀しい光に見えた。
「いや、なんでもねー……」
「動けるようになったら、メシを食って、散歩にでも行こう。良く晴れてる」
ハインリヒの声が、心地良い。
ジェットはのそりと上体を起こすと、暖かく硬いハインリヒの胸に、顔をうずめた。
眉間にまた寄った皺を、見られたくなかった。
* * * *
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
現実では、頭部と胸部から右腕だけが回収されたジェットにハインリヒが付き添い、脳波が戻り、ボディも再生されていくまで、傍らでずっと手を握ってやっていると良いと思います。
実はものすごく真面目なコ、ジェットが大好きです。ハインリヒはRE:で『饒舌でいつも余裕があるオジサマ』にイメージが変わりました(笑)